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ツイ・ハーク、『男たちの挽歌』の基となる作品を手掛けた香港映画界の巨匠ロン・コン監督ついて語る!

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ロン・コン監督(左)と、ツイ・ハーク監督(右)
ロン・コン監督(左)と、ツイ・ハーク監督(右)

 香港映画界の巨匠ロン・コン(龍剛)監督とツイ・ハーク監督が、ニューヨークの映像博物館で行われたロン・コン作品の回顧上映を通して、香港映画界について語った。

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 ロン・コン監督は、ギョロ目のキャラクターとして1950年代から香港のショウ・ブラザーズの俳優として活躍し、その後監督業に転身。1967年にはジョン・ウー監督作『男たちの挽歌』の基となった作品『英雄本色』を手掛け、後にジョン・ウー監督だけでなく、ツイ・ハーク監督、ウォン・カーウァイ監督、俳優のジャッキー・チェンジェット・リードニー・イェンなどに大きな影響を与えた香港映画界の巨匠。

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 ロン・コン監督についてツイ・ハーク監督は「ロン・コン監督作品は、香港映画界で後に独自の彩りを放つ、才能ある監督や俳優にとって、原色にあたる存在で、その才能は1960年代に確立された。 当時はショウ・ブラザーズ(北京語使用)が香港映画界を支配し始めていて、広東語作品のシェアが減っていた時期だった。そんな時期に彼は広東語で斬新な作品を作り上げた。 香港では1960年代に、アートの分野で個性的なアイデンティティーが模索され始め、それが社会的にも個人主義に変わっていく様を、彼は風刺的に捉えていた」と説明した。

 自身の過去についてロン・コン監督は「60年代に広東語作品は激減し、ある意味“死”に直面していた。それは当時香港映画界では、ショウ・ブラザーズ以外にも多くのプロダクションが台頭し、彼らが作品の質さえコントロールしていたからだ(ショウ・ブラザーズは、評価基準に達しないフィルムを全て消却していた)。さらに当時の広東語作品は、広東オペラ作品が多く、コメディー作品でさえ笑えないものばかりで、当時は、広東語作品はいずれ無くなるのではないかとさえ思われていた。そんな時期に僕の友人の映画関係者が、それなら君がより良い作品を手掛けてみたらと勧めてきた」と振り返った。

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 どのようにロン・コン監督は香港映画界を変えていったのか。「当時の広東語作品はジャンルが狭く、似たような作品ばかりだった。まるでフライドチキンを毎日食べているようでへきえきした。そこで、さまざまなジャンルの作品を製作することから着手した。60年代には僕は14作品を製作し、全ての作品において異なったテーマを題材にした。1作でも似たテーマを描かなかったんだ」と語った。そのこだわりが、 現在の香港映画界の礎となった。 (取材・文・細木信宏/Nobuhiro Hosoki)

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