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100歳で亡くなるまで映画を愛し続けた故・新藤兼人監督、独立系で60年を超える映画人生…

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父・新藤兼人について語る新藤次郎
父・新藤兼人について語る新藤次郎

 29日、赤坂区民センター区民ホールで故・新藤兼人監督の遺作となった2011年作『一枚のハガキ』追悼上映イベントが行われ、本作プロデューサーで、子息である新藤次郎プロデューサーが父・新藤兼人監督の思い出を語った。

100歳で亡くなるまで映画を愛し続けた故・新藤兼人監督 画像ギャラリー

 10月20日から開幕予定の第25回東京国際映画祭プレイベントとして開催された本上映会は、9年前から映画祭のメイン会場が港区の六本木に開催されるようになったことから、港区・東京国際映画祭の共催企画として毎年行われているもの。そして9年目を迎える今回は、今年5月29日に他界した故・新藤兼人監督の月命日と重なることから追悼イベントを実施。この日上映された『一枚のハガキ』は2年前、第23回東京国際映画祭コンペティション部門に出品され、審査員特別賞を受賞。その後も各種映画賞を総なめにし、興行的にもヒットを記録した。

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 映画祭当時は、六本木で開催されている映画祭が「家に近いからいいね」とジョークを飛ばしていたという新藤監督。『一枚のハガキ』も映画祭側からの強い要望もあって出品を決定したという。「体力的なこともあって、もう海外には行けない。それでも映画祭のひのき舞台には立たせてあげたい。本人もわたしの気持ちを分かってくれて、出品しようと言ってくれた」と振り返る次郎氏。当時98歳だった新藤監督が車いすに乗ってグリーンカーペットに降り立った姿が、多くの人たちの心に感動を与えたことは記憶に新しい。

 1950年に吉村公三郎監督たちと近代映画協会を立ち上げてからおよそ60年。長きにわたってインディペンデント映画の世界で走り続けてきた新藤監督を、次郎氏は「日本の映画監督の系譜の中でもとても異質」と切り出し、「ほとんどの作品を、自分でプロデュースし、責任を持って作ったもの。どこかから監督料をもらって作ったものは10本にも満たない。自分の作りたい作品を作ること。それが監督をやる原動力だったんだと思う。それを60年くらい続けてやってきたんですから、そんな監督はこれからも、もう出てこないでしょうね」と評する。

 亡くなる間際まで、寝言で聞こえてくるのは映画のことばかりだったという新藤監督。次郎氏も「本当に映画がすべてだったんだな」と微笑んだ。(取材・文:壬生智裕)

第25回東京国際映画祭は10月20日よりTOHOシネマズ六本木ヒルズをメイン会場に開催予定

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