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名画プレイバック

テレンス・マリックの要求に離脱者続出…実話に基づく青春ロードムービー『地獄の逃避行』(1973年)

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『地獄の逃避行』(1973年)のシシー・スペイセク&マーティン・シーン。若っ!
『地獄の逃避行』(1973年)のシシー・スペイセク&マーティン・シーン。若っ! - (C)Warner Bros. / Photofest / ゲッティ イメージズ

 2011年の『ツリー・オブ・ライフ』以降、コンスタントに新作を撮り続けているテレンス・マリック監督。『地獄の逃避行』(日本劇場未公開)はかつて寡作で知られた監督の長編映画デビュー作だ。25歳の青年と15歳の少女が恋に落ち、交際に反対する彼女の父親を射殺して駆け落ちする。2人は逃亡中にも殺人を繰り返した。だが、1950年代の実話がベースのあらすじと邦題が与えるイメージとは大きくかけ離れた作品だ。(冨永由紀)

 日本では劇場未公開だった本作は、マーティン・シーンが『地獄の黙示録』(1979)に主演したのを機にテレビ放映され、その際にこの邦題がつけられた。原題は「BADLANDS」。荒地を意味する言葉で、主人公たちが暮らしていたサウスダコタ州にある国立公園の名前でもある。元ネタは1958年にネブラスカ州で19歳の青年と13歳の少女が起こした「スタークウェザー=フーゲート事件」で、その後も映画やブルース・スプリングスティーンの曲(ネブラスカ)の題材になった。

 キット(マーティン・シーン)はゴミ収集の仕事をしている。白いTシャツにデニムの上下でジェームズ・ディーンを意識したスタイルだが、その言動はクールな風貌や25歳という年齢より少し幼い印象がある。15歳のホリー(シシー・スペイセク)は幼い頃に母が病死し、父親と2人暮らし。友達もいない彼女は、声をかけてきたキットと会うようになり、やがて恋に落ちる。だが、彼女の父親はキットとの交際を許さず、駆け落ちを計画したキットはホリーの家に侵入し、鉢合わせした父親をホリーの目の前で射殺し、家に火を放つと彼女を連れて逃走する。

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 マリックのその後の作品と同様に、登場人物によるヴォイス・オーヴァーのモノローグがナレーションとなっている。本作の場合はホリーだ。すべては15歳のナイーブなヒロインの視点から語られるので、ストーリーテリングはとりとめもなく、整合性もない。演じるスペイセクは撮影当時22歳だが、赤毛にそばかすのファニーフェイスがチャーミングで、十代の少女らしい心もとなさを見事に体現している。キットを演じたシーンは32歳で、最初にオファーが来た時は「歳を取りすぎている」と断ろうとしたが、マリックが「年齢設定を上にするから」と申し出たという。マリックの判断は賢明で、シーンは一世一代と言ってもいい名演だ。彼はハンサムだが、影がある。ハリウッドの主流で主演を張り続けるために必要な何かが足りない。だからこそキットに適役であることは、物語が進めば進むほどわかってくる。

 考えるより先に行動するキットだが、不思議なほどに激昂することがない。交際を禁じたホリーの父親にも、突然クビを言い渡す職場の人間にも、食ってかかりはせず、踵(きびす)を返した後、ふと立ち止まって相手を一瞥(べつ)し、そのまま立ち去る。ありがちな無闇に反抗的な若者像とは違う、この姿が非常に印象的だ。その一方で、ホリーの父親を殺して以降は目の前に立ちはだかる者を何の迷いもなく撃つようになる。シーンは後に語っているが、マリックは「キットにとって銃は、気に入らないものを一振りで消せる魔法の杖のようなものだ」と説明したという。ホリーは父親を殺した相手に怯えることなく、憧れのスターに似た素敵な恋人との逃避行に身を投じる。彼女も、いわゆる十代の女の子っぽくキャーキャーはしゃいだりしない。キットが次々と人を殺すのを一切止めず、煽りもせず、ただただ傍観する受け身のファムファタールだ。

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 2人は森の中にツリーハウスを作って隠とん生活を始める。ままごとのような日々を送りながら、ホリーは彼女なりの哲学的な自問自答をモノローグで繰り返す。これもマリック印のスタイルで、最新作『聖杯たちの騎士』(12月23日)で健在だが、拙い言葉足らずのシンプルなホリーの思考は、近年の作品における観念的な言葉よりも観る側の心に突き刺さってくる。

 気ままなアウトドア・ライフのようなツリーハウスの場面は脚本にはなく、マリックの思いつきで追加され、美術監督のジャック・フィスクは急きょツリーハウス造りに追われたという。監督の突然の発想がこの作品の要だ。マリックは、前日にスペイセクと交わした会話の内容を翌日撮影分の脚本にリライトして盛り込み、空が美しいからと撮影監督が現場を後にしているのも構わず、自らカメラを構えて、キットがライフルを十字架のように背負うシーンを撮ったという。ユニオンに加入していないスタッフ中心の撮影現場は拘束時間も長く、次々に飛び出すマリックの要求に耐えかねて何人も離脱者が出た。撮影監督にも3人の名前がクレジットされている。それでいて、ショットの一つ一つがどれも息をのむように美しい。偶発性を重用しながら、しっかりとしたヴィジョンを持つマリックのスタイルが貫かれ、“映画は監督のもの”という言葉を証明する作品だ。

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 ツリーハウスを探し当てた賞金稼ぎの男たちを射殺し、キットはホリーを連れて再び逃走する。行く先々でさらに殺人を繰り返し、金持ちの家に押し入って金品やキャデラックを奪う。豪邸でつかの間の休息をとる間、建築家が家の主人を訪ねてくる。キットが玄関先で応対し、突き返すその相手を演じているのはマリック監督だ。キャスティングしていた俳優が現れなかったための応急処置だったが、シーンが撮り直しを断固拒否したおかげで、今やほとんど公の場に現れないマリックの姿を収めた貴重な映像となった。また、父親を射殺されたホリーが家の窓から外を眺める場面で、夜の通りに幼い少年2人が佇んでいるのだが、彼らはシーンの息子であるエミリオ・エステべスチャーリー・シーンだという。

 罪を重ねながら、モンタナ州の荒野(バッドランズ)を駆け抜けていく2人の関係にはやがて変化が生じてくる。15歳で、世間知らずで夢見がちのように見えて、ホリーは妙に現実的でもある。行き当たりばったりの年上の恋人に振り回されながら、「もう二度とむこう見ずな人と行動を共にしない」と密かに誓い、恋心はあっという間に醒めてしまう。夜の荒野を行く車中でキットの語る言葉を聞き流すさまは、倦怠期を迎えて夫に愛想をつかした妻のようだ。その時カーラジオからナット・キング・コールの「A blossom fell」が流れ、2人が闇の中で曲に合わせて踊るシーンに続く。キットは「こんな風に歌えたらな。今どう感じているかを歌えたら」と言う。セリフを受けて聴こえてくる歌詞は、まさにその瞬間の2人の状況を歌ったかのようだ。2人ともお伽話のように生きようとしながら、根はどうしようもなく現実的で夢を見きれない。

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 本作にはホリーだけではなく、キットのモノローグもある。ただ、それはナレーションという形ではなく、録音という形で彼が残そうとするものだ。最初はホリーの父親を射殺した後、街へ行ったキットは駅構内にある「プライベート・ヴォイス・レコーダー」に「ホリーと俺は自殺することにした。彼女の父親に俺がしたことと同じやり方だ」と遺書めいた内容を吹き込む。次に金持ちの男の邸宅に押し入った時、そこにあった口述機にも彼はメッセージを残す。「両親や先生の言うことを聞け」「心を開き、他人の視点を理解するよう心がけろ」などなど、言っていることとやっていることの矛盾がとにかく大きい。そして「少数派の意見に耳を貸せ。ただし多数派の意見が通ったら、長いものに巻かれろ」と夢のないことを言い残す。このニヒリズム(虚無主義)が、もしかしたらキットとホリーを結びつけた唯一のものなのかもしれない。

 ボニーとクライドや、映画や小説に登場した数多(あまた)の無鉄砲カップルとは違う、運命の相手ではない者同士の道行き。そんな彼らがたどり着く結末のあっけなさが美しい。

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