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『嘆きの天使』(1930年)監督:ジョセフ・フォン・スタンバーグ 出演:エミール・ヤニングス、マレーネ・ディートリッヒ 第39回

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『嘆きの天使』公開当時のポスタービジュアル
『嘆きの天使』公開当時のポスタービジュアル - Paramount / Photofest / ゲッティイメージズ

 「ファム・ファタール(Femme Fatale)」とは、フランス語で「運命の女性」あるいは往々にして「男性を破滅させる魔性の女」という意味で使われる。この言葉からイメージする銀幕スターは、映画ファンの数だけいるに違いない。1930年のドイツ映画『嘆きの天使』で、生真面目な教授を破滅に導く踊り子を演じたマレーネ・ディートリッヒは、ハリウッド進出のきっかけとなった本作で、完璧なまでのファム・ファタールを体現して世界中を魅了した。アンニュイで退廃的な雰囲気と美貌に、ディートリッヒの代名詞となる100万ドルと称された脚線美、セクシーな歌声は、今もなお色あせることはない。(今祥枝)

【写真】“百万ドルの美しい脚線美”を持つ大女優ディートリッヒ

 真面目一筋、実直な英語科の教授イマヌエル・ラート(エミール・ヤニングス)は、いたずら好きで勉強に身が入らない生徒たちを叱りつけながら、淡々と講義を行う日々。ある日、学生が持っていた絵葉書を見咎めると、それは街のキャバレーの踊り子ローラ(マレーネ・ディートリッヒ)のブロマイドだった。あまりのいかがわしさに憤慨し、学生たちが悪の道に引きずり込まれないよう事実を確認して意見しようとキャバレーに出向いたのが運の尽き。すっかりローラに魅了されて入れ込んだラートは通い詰め、ついには結婚する。だが、幸せな日々は長く続かず、巡業の旅の日々に貯金も使い果たし、妻の裸体写真を酒場で売り歩くようになるまでに落ちぶれていく。

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 103分間、スタンバーグ監督による実に無駄のない演出が冴え渡る。冒頭、教員用宿舎の書籍に囲まれた殺風景なラートの部屋に、世話係の女性が朝食を運んでくるシーン。お茶を飲みながら飼っている小鳥に口笛で呼びかけるも返事はなく、のどかで平和ないつもの朝は一変。鳥かごに近づいたラートは、小鳥が死んでいるのを発見する。見るも哀れなほど悲し気な表情のラートに対して、女性は小鳥の亡骸をつまんで「歌をやめたのね」と言い、いとも簡単にポイっとボイラーに放り込んでしまうのだった。それを呆然と見つめるラート。

 この最初の数分でまず、ラートの孤独が決定的となる。心の拠り所にしていたであろう美しくさえずる小鳥が突然いなくなり、彼は正真正銘の独りぼっち。そんなとき、今までに見たことも出会ったこともないような妖艶な美女に出会い、ひたすら学問に打ち込んできた人生で初の高揚感、幸福な感情が生まれたことは想像に難くない。ここで一夜の夢だと現実を直視するのが普通かもしれないが、楽屋で初めてローラに出会った後、静まり返った部屋に戻った瞬間に感じるラートのわびしさが痛いほど伝わってきて、彼の気持ちがローラへと向かってしまうことも仕方ないかと思えてしまう。スタンバーグはセリフではなく、こうしたちょっとした物言わぬシーンで登場人物の心情を感情豊かに伝えることに長けていて素晴らしい。

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 そして、ディートリッヒ演じるローラである。舞台でスポットライトを浴び、脚線美を強調しながら男性たちの視線を釘付けにして艶っぽく歌う、有名な主題歌「Falling In Love Again(Ich bin von Kopf bis Fuss auf Liebe eingestellt)」。「男たちはとびまわる 灯を巡る蛾のよう 男たちが焼かれても私は何もできない 私は頭のてっぺんからつま先まで恋の塊」と歌うディートリッヒには、何度観ても飽きずに魅了されてしまう。歌が上手いのかと聞かれると迷うものがあるが、低めの声は個性的で人を引き付けるものがある。

 割と陽気な感じであっけらかんと歌っているが、ラートとの間に起きる悲劇的な展開を考えると、劇中に繰り返し登場するこの歌の歌詞がぐさりと胸に刺さる。まるで恋に落ちるのは男の自己責任で、自分は好きなようにしか生きることができないのだから、という身勝手な宣言でもあるかのようだ。もちろん、恋愛にはそうした側面は付きものかもしれない。勝ち負けではないし、どちらが上か下かといったものでもないけれど、惚れた弱みというものは確かにある。だが、相手がローラのような女性の場合、ラートが生きてきた世界の常識など通用するはずもなく、これはもう出会ったのが運の尽きとしか言いようがない。世間知らずのラートは醜い現実に思い至ることもなく、失ったばかりの小鳥の代わりを天が遣わしたとでも言わんばかりに、世にも美しい歌姫に恋をする。愚かではあるが、その愚直なまでの誠実さ、純粋さは痛々しいほどで、観客の胸を打つ。

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 ここで思い出すのが、ファム・ファタールものの代表格「カルメン」だ。ジョルジュ・ビゼーによるオペラの中で主人公カルメンが歌うアリア「ハバネラ」は、本作の冒頭の小鳥のエピソードとも符合するものがある。「恋は野の鳥 誰も手なずけられやしない」から始まり、恋とはどうしようもなく落ちてしまうもの、コントロールなどできないしルールもないといった内容で、自分と恋をするなら用心することねと繰り返す。女とは、恋とは飼いならされた籠の鳥にはなれないのだ。うっかり心を奪われたとしたら、その先は誰にもわからないのである。

 カルメンにもローラにも通じるのだが、そもそも勝手に恋をしたのはあんたの方でしょう? という感覚は、何とも罪深い。最初にラートがキャバレーを訪れた際に、あまりの堅物ぶりに団員たちも引き気味の中、わざわざ楽屋に呼んで着替えをしながら美脚を見せつけたり、舞台の上から目配せしたりするローラは、無意識のうちに男の気を引く手練手管を弄しているといっていい。もちろん、それが商売なわけで責められたものではないのだが。ローラにとってみれば自分の崇拝者、顧客が増えるに越したことはないという程度だったのだろうが、ラートはすっかり本気になり、結婚を申し込むという暴挙に出る。このシーンがまた素晴らしく、価値観の全く異なる世界に生きる2人の決定的なズレを如実に表している。ローラはしばしば男性に媚びているのか、馬鹿にしているのかよくわからないような声でケラケラと笑うのだが、ラートがプロポーズしたときもけたたましく笑い出す。ラートはこの瞬間を真剣に心に刻んで欲しいとやんわり諌めるのだが、ローラが彼の決意の重さがわかっているようには到底思えない。一方のラートにとっては、彼女の笑い声は甘美なものに思えたのだろうか? 映画が進むにつれてローラのこの笑い声は観客のカンに触るものとなり、「Falling In Love Again」はより残酷な響きを帯びていく。

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 ディートリッヒは本作で世に出て人気を博し、ハリウッドに呼ばれて大スターへの道を歩むことになるのだが、よくもこんな役を引き受けたなあと思うほど慈悲も何もないタチの悪い女を演じ切っている。一方で、同性の憧れを獲得してこそ、スクリーンの中の真のファム・ファタールと言えるのではないか。その点でディートリッヒは群を抜いている。モダンで退廃的、細い眉に物憂げな瞳はのぞき込まずにはいられない吸引力で、たまらなくセクシーでありながらエレガント。100分の1でもいいから、こんな風になりたいと真似してみたくなる女性は少なくないはず。かつ、男を意のままに操るような痛快さは、潜在的な女性の抑圧された感情を代弁しているかのようで、男性とはまた違った意味で、ディートリッヒが体現するファム・ファタールは女性にとってもまた魅力的なのである。

 恋愛において詐欺行為でもない限り、どちらか一方だけが悪いということはないと考えるならば、ラートが不幸せだったかどうかは、正直なところ何とも言えないものがある。平穏無事な毎日だが何のときめきもない人生と、破滅しても構わないと思うほどの女性との、生涯ただ一度の恋の喜びを知ることを天秤にかけることはできない。こんな女に血迷った男の自業自得だという人もいるだろう。とはいえ、ラートがたどる転落の道はむごい。終盤、あまりの屈辱に耐えかねたラートが、気がふれたかのように奇声をあげながらローラにつかみかかっていくくだりには、心臓をえぐられるかのような痛みを覚える。ヤニングスは『肉体の道』(1927)でアカデミー賞主演男優賞に輝いたスイス出身の名優で、本作の時点ですでに評価は定まっていたベテラン。そのヤニングスが渾身の演技を披露する終盤のラートの慟哭を、私は忘れることができない。一方で、「私にどうしてほしいの?」と言い放つローラ=ディートリッヒのアップ、とりわけその冷たくシャープな目の表情には、ゾクゾクしてしまうという後ろめたさ。これぞまさしく理想のファム・ファタールではないだろうか。

 原題は『Der Blaue Engel』。直訳すると“青い天使”だが、本作は美しくも残酷な堕天使に恋をしたラートの“嘆き”の物語とも言える。そう考えると、この邦題は実に的を射たものに思えるのだ。

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